第49回埋蔵文化財研究集会「弥生時代の交易-モノの動きとその担い手-」
当日発表原稿(2001年2月10日)」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001b.html
弥生中期後半になると,勒島など,韓国南部への須玖式土器の流入は終わりに近づきまして,代わって日本に勒島式土器が入ってきます。勒島の報告が出そろってから改めて考えたいのですが,一応,衛氏朝鮮(えいしちょうせん:紀元前2世紀に西北朝鮮に存在した政治集団)の滅亡と楽浪郡などの設置で経済環境が変わって,勒島の交易拠点としての求心力が弱まったと考えておきます。
弥生中期後半にもたらされた勒島式土器は,対馬・壱岐と北部九州・本州の沿岸地域など,海上交通の要衝に集中しています。このうち,原の辻遺跡では,擬朝鮮系無紋土器が生み出されておりまして,韓国の人が原の辻の辺りに住んで,交易に従事していたと思われます。
一方,糸島地域など,北部九州の弥生土器が壱岐に多量に持ち込まれているようですが,(魏志)倭人伝によりますと,壱岐では農産物を自給できず,外から米を買っていた(「差有田地,耕田猶不足食。亦南北市糴。」)ということですから,北部九州の倭人が,農産物を壱岐に供給して,一部は自分で食べたんでしょうが,そのかわり,交易の便宜を保証してもらうような関係にあったのではないかと考えます。また,宴会や祭祀などを催して,交易仲間としての友情を確かめるなどの用途で土器が使われたのかもしれません。
つまり,勒島に代わって壱岐が交易の重要拠点となり,韓国の人や北部九州の人がここに集まって物資を交易していたと考えられます(原の辻貿易)。なお,今回は集落に重点を置いたので,資料集では触れませんでしたが,先ほどの阿比留さんのご発表から考えますと,対馬も同様の役割を果たして活躍していたかもしれません。
弥生中期後半には,北部九州の伊都国や奴国などで,大集落が作られまして,鉄器の使用が日常化したり,集約的な青銅器生産工房を抱えたりしていますが,このような拠点集落を維持するために,対馬・壱岐での交易は重要な意味を持っていたことでしょう。
4番目の弥生中期末から後期前半については,楽浪の人が新たに登場しますが,これはひとまず政治的な交渉を主とし,これに交易が付随するようなものであったと考えておきます。
この時期の重要な変化は,瀬戸内や畿内の方にあると思います。私に与えられたテーマや,日ごろの興味とはかけ離れているので,あまり深入りしたくはないのですが,瀬戸内や畿内の弥生中期末から後期初めにかけて,流通機構の再編を伴うような変革が起こったと言われているようです(松木武彦氏らの見解を指す)。畿内や瀬戸内と北部九州の並行関係には,いろいろと論議があるようですが,いずれにしても,北部九州の倭人が壱岐を拠点として交易で活躍していた時期のうちのどこかで,瀬戸内や畿内の変革があったということでしょうから,この変革は,壱岐や北部九州の交易のやりかたに変更を迫るものではなかった,むしろ,そうした交易の末端に鎖のように連なろうとする(連鎖交易)ような変革だったと,一応考えておきたいと思います。
先ほど,粘土帯土器と三韓土器の分布を比較しまして,粘土帯土器は日本海側,三韓土器は瀬戸内,という大まかな傾向を申し上げましたが,この時期に瀬戸内が主な交易ルートとして北部九州の東に連なると考えておきます。
弥生後期後半には,楽浪土器の分布が広がりますが,このころ,楽浪土器の器種も,運搬に有利なものが主体となりまして,政治主体から交易主体の交渉へと,ある時点で推移したのではないかと思います。志摩町の,おそらく港と思われる御床松原遺跡とは対岸の,二丈町の深江井牟田遺跡や曲り田遺跡に,新たに楽浪土器が出土しますが,農地に近く,倭人との接触の多い土地に楽浪の人が活動の範囲を広げたことを示すのではないかと思います。
それから,弥生後期後半から終末にかけて,対馬の墳墓に楽浪土器の副葬が増えることも重視したいと思います。対馬に関しては,吉田さんが魅力的な仮説を提示されまして,あっちの方がいいなぁという気もするのですが,とりあえず,資料集の内容に沿ってお話を続けます。
弥生時代以外の,特に韓国の土器の地域性が明瞭な古墳時代ころの対馬をみますと,対馬で出る陶質土器と,九州や本州で出る陶質土器とは傾向が一致しておりません。むしろ,その時その時の,対馬の対岸の陶質土器が多くみられます。それらは生活や副葬に必要としたから入手したもので,主に農生産物の入手(「市糴」)のために持ち込まれたと考えられます。しかし,そうしますと,楽浪土器を産地から遠く離れた対馬で副葬に用いている,しかもこの時期になって複数の墳墓でそのような例が確認できることは,異例です。対馬の人びとにとって身近に楽浪土器が流通していたか,あるいは,楽浪の人が対馬の近辺で交易をしていたという事態を考えたいと思います。
そうしますと,弥生後期後半には,楽浪の人が朝鮮半島の南部から対馬・壱岐,それから北部九州の伊都国辺りの範囲で,積極的に交易に関与し,各地の倭人もそれに応じたので,楽浪土器の分布が拡散したのだと考えられます。これについて,川上洋一さんは,三韓土器の分布よりも楽浪土器の分布が狭いので,「列島と楽浪郡,朝鮮半島南部との交渉が別の系譜であった」という解釈を示されましたが,伊都国より東側に拡大した楽浪土器の分布は,三韓土器の分布にすっぽり収まってしまいますから,別の系譜などを想定するまでもないと思います。むしろ,楽浪の人の活動は,西日本の交易に大きな改変を迫ることはなく,むしろ,従来からの,地域間の交易関係に取り込まれて,それを利用することで,成り立たっていたとみた方がいいでしょう。
しかし,西日本の地域間交渉にも,若干の変化があったようです。
このころになると,瀬戸内の吉備の地域に,三韓土器や楽浪土器の模倣品というか,変容品のようなものがいくつかみられます。これらは,吉備の人たちにも,実物の三韓土器や楽浪土器を知る機会があったという証拠です。このころになって,吉備の土器が北部九州など各地にもたらされるそうですから,そうすると,吉備の人がみずから北部九州や大阪湾などを往来して交易を行ない,時には三韓や楽浪の人とも直接に物資を交換するような状況が生じていたと考えてよいでしょう。そうすると,西日本の交易の中で,壱岐や北部九州の地位が,わずかですが相対的に低下し,瀬戸内での交易のしかたも変化が生じていたことになります。こうした変化は,実際にはかなりの時間をかけて徐々に進行していたのではないかと思います。
弥生終末になりますと,瀬戸内や大阪湾岸で三韓土器の形を持つ在地産土器がみられ,特に大阪府の久宝寺遺跡などには渡来人が居住した可能性が高いようです。日本海側でも島根半島での三韓土器の出土が知られております。これは,三韓の人たちの側の変化というよりも,西日本各地で,いろいろな人が,いろいろな場所で,いろいろな相手と,盛んに交易をするようになったため,西日本各地の倭人が三韓の人に直接会ったり,あるいはそうした交易ルートをたどって三韓の人が西日本の各地に赴く機会があったのでしょう。
こうした状況は,北部九州の弥生中期後半以来の経済的地位を脅かすものだったと思われます。
さて,弥生終末のこのような交易の担い手についてですが,数年前に福岡市教育委員会の田上君が,博多湾岸で出土した飯蛸壺についてまとめていまして,それによりますと,大阪湾岸から播磨灘沿岸にかけて行われていた飯蛸壺漁が,弥生後期後半から終末ごろに博多湾でも行われるようになり,古墳前期に普及するということです。こうした漁撈技術が同じころに伝わるところをみると,弥生終末に各地で交易を担った人びとのなかには,瀬戸内で漁撈を生業とする人びとがいたことがわかります。
これが古墳前期になりますと,陶質土器や楽浪土器の分布は,一転して北部九州に集中し,特に,西新町遺跡などの博多湾岸に異様な集中を見せています。しかし,韓国の人が西新町の竪穴住居にカマドを作って使っていても,結局遺跡の外にはほとんど普及しなかったことを武末さんが指摘されておりますように,やはりこれは交易のための一時的な滞在であったと思われます。
最近の西新町遺跡の調査成果などによりますと,このころ朝鮮南部のいろいろな地域の人が博多湾を訪れ,倭人も,西日本の各地から来ていたようです。韓国でもこのころから,布留式系の甕であるとか,土師器系軟質土器だとかといわれる土器が出土することからみても,交易自体は衰退していなかったと思われますが,なぜか日本での陶質土器や楽浪土器の出土は北部九州にかぎられています。
つまり,弥生終末のように,西日本各地でバラバラに交易をするのではなく,やはり集約点が必要だということになって,古墳前期に博多湾で集約的に交易を行なうようになり,韓国や西日本の各地の人が博多湾で顔を合わせて交易するような状況になっていたのだと思います(博多湾貿易)。
なお,資料集では,古墳前期になってすぐに「加美・久宝寺遺跡群」が廃絶したかのような書き方をしておりますが,これは表現に誤りがありまして,実際には古墳前期のある時期まで,存続していますが,それでも,私の話の趣旨は,変更の必要がないと思います。